昭和47年10月10日 朝の御理解



 御神訓 一、「神信心してみかげのあるを不思議とは言うまじきものぞ。」

 霊験と言う、みかげと言うのはね。神信心という事は、神様だけの事ではない。仏様を信心しても、お地蔵様を信心しても良ければ、観音様を信心しても良い。窪坂霊験記のお芝居がありますね。お里沢市の、夫の眼病を治す為に、窪坂寺に、一心を込めてお願いをする。そして、不思議や、夫の沢市の眼病全快というような霊験と。そういう意味ですね。いざり勝五郎の場合でも、そうですよね。いざりが立ち上がるといったような霊験。そういうのは、映画や芝居の上に現れておる。
 嘘というのじゃなくて、やっぱり事実をもとにして出来たお芝居です。そういう例は、信心ちゃ不思議な事じゃあると。信すりゃ徳があると言った様なおかげを受ける。これは、何様という事ではない。言うならば、柱一本を目当てに拝んでも、奇跡は現れると。それは、わが心に神がござるから、おかげになるのじゃと教祖は教えておられます。だから、金光様の御信心ではなくても、だから、そういう意味での、奇跡的なおかげ霊験というものは、一心を立つれば、やはりおかげが受けられるという事。
 私は、今日、御神前で、御祈念中に頂いたのは、三十ぐらいの、粋な女の方の髪を、こう上に結い上げて、ちょっときざな位に、今の流行りのかんざしを、斜めに指したね、実に、粋な感じですよね。奇麗に、そういう髪を結い上げ、しかも、そういうかんざしを、非常に印象的に頂いたんです。どういう事だろうかと、私は思わせて頂いて、今日の御理解を頂きますと。この御神訓の「神信心して霊験のあるを不思議とは言うまじきものぞ」という事である。
 そこで、お道の信心で言う、神信心というのは、どういう事かと。ただ一心に拝むとか、祈願をこらすというようなものではないという事。神信心、信心である。私は、今朝からお知らせを頂いた事から、ヒントを得て、皆さんに聞いて頂く訳でございますけれども。髪を結い上げるという事、綺麗に。これは、信心を、仕上げると言うことだと思うです。神様の神は、信心の信に通ずる。奇麗に髪を結い上げるという事。これが、金光様の信心なのです。
 信心とは、わが心が神に向うのを信心と言うのじゃと。信心とはわが心が神様へ向かって進んでいく事を、信心と言うのじゃと。金光教の信心とはそれなんです。そういう信心を身に付ける為には、どうしても、信心とは本心の玉を磨くものぞやというようなところに、焦点が置かれなければならんのです。信心は、日々の改まりが第一と教えられるように、お道の信心は、どうしても改まるという事。日々の改まりという事。同時にです、信心とは、本心の玉を磨くという事が、お道で言う信心なんです。
 こう頂いてくると、神信心してという事の意味が分かってくる。だから金光様の御信心で、一生懸命参ってから、奇跡的なおかげを頂いたというのは、それは、金光様ではなくても、その奇跡ぐらいは現れるのだという事。合楽でも、ここ二十数年の事を思うたら、それこそ、盲が眼が開いたり、チンバが立ったりというような、もう難しいという、ガンなんかのような病気が、沢山おかげを頂いております。そんなら、その人達の信心が出来ておったかと言うと、そうではない。
 一心の願いを立てて、信心をしたけれども、信心が出来ておったかと言うと、髪を結い上げてはいない。信心が分かったという訳でもなからなければ、信心が身に付いたという訳でもない。だから、そこ迄は金光様の信心じゃなくっても、いい訳なんです。ですから、お道で言う信心、いよいよ本心の玉を磨かせてもらう。日々の改まりの事に、焦点を置いて、日々頂く御教を楽しみに、その御教を行ずる。そして、現わしていくというところに、お道の信心があるのです。
 そういう信心にです、おかげを頂く。それが、私は、今日お知らせを頂いた、かんざしを指しておる、髪を結い上げるという事が信心のおかげであり、それにです、添えるようにして、かんざしを指したり、又は櫛こうがいを付けたり、又はリボンを付けたりというのが、それが霊験なんです。言うならおかげなんです。だから、お道の信心を段々させて頂いておるとです。心の状態が、和賀心に向かっていく。心が豊かに、円満になっていく。心が段々美しゅうなる。
 家庭が円満になる。家が段々と、日勝り月勝り年勝りに、繁盛のおかげを頂いてくる。信心が、出来てくるからです。本当の意味に於ての、お道で言う、神信心が出来てくるようになるから、いろんなおかげが現れてくる。それを金光教で言う、信心であり、霊験であると頂かなければならんのです。その次の御神訓に、信心して霊験のなき時はこれぞ不思議なる事ぞとおっしゃってある。金光様の御信心は信心が育ってくる。信心が分かってくる、身についてくる。
 それにその信心に、結い上げた髪にかんざしを指すように、おかげの方が寄り添うてくる。だから、誰が見ても、成程、金光様の信心を頂いておられる家庭だなと分かってくる。信心させて頂く事によって、人間が変ってくる。改まるとか、魂を清めるという事に、どういう風に清めるか、どうして改まるかという、様々な角度から、改まっていく事の為の信心を頂かせて貰う。本気でです。今毎朝、ここの指出から、加藤さんという方が、毎朝参ってみえられる。
 こういう有難い神様が、本当に足元におられておるのに、どうして早う分からなかっただろうかと、お参りするたんびに、その事を言っております。昨日の朝も、お届けの時、それを言っておられます。そして、どこから湧いてくるか分からん喜び。これは、信心を頂かなければ頂けない喜び。どうして足元に、こういう有難い神様がおられたのにです。桜井先生達夫妻のお導きでお参りをさせて頂いたが。
 毎日毎日お参りをさせて頂いて、様々な人間関係、難儀な問題は、その事をいちいちお取次頂いて、お願いをさせて頂くという事。その事が有り難いのではなくてです。どこから湧いてくるか分からん喜びに浸らせて頂けておるという事。だんだん信心を結い上げて行かれる訳です。髪を奇麗に結い上げて行かれる訳です。今迄の生き方、又は思い方が間違うておったと思いを変えていく、生き方を変えてくる。それが神様の感動を呼ぶ。その喜びが返ってくる。
 その喜びが、信心しなければ頂けない喜びに浸らせて頂いておると。どうしてこういう有難い神様が、足元におられたのに、お参りが出来なかっただろうかと、後悔しておりますと言うのである。それは参る事を覚えた。そしたらこげな奇跡が頂けたというのじゃなくて。自分の心の上に、信心の芽が出ると言うかそれが育ってくる。それは喜びというのは、それを神様のお喜びと私は思う。
 その喜びが加藤さんの心の中に、感動となって道を歩いておっても、お仕事に通わせて頂いておっても、その喜びが頂けて、今迄かって味わった事のない喜びに浸らせて頂いておると言うのである。そういう信心の、喜びの力とか喜びの徳が身に付いてくる事によってです。神様はそれに影が寄り添うようにおかげを下さる。此の頃家が立派になって行きよる、家庭が円満になって行きよんなさると思いよったら、金光様にお参りしよんなさるもんじゃからという事になってくるのです。
 だからそれが三年五年十年と、段々続いて行くうちに本当の意味に於ての信心、が結い上げられてくる。本当の意味に於ての神様が下さろうとなさるおかげ。そのおかげを頂き留めて行く事にならなければならんのです。ですから信心してみかげがないという事はです。不思議とは言うまじきものぞと言う、当然の事として頂けれるおかげなんです。だからここのところを、一心に拝んだとか、修行をしたとかそれこそ窪坂霊験記じゃないけれども、いざり勝五郎の仇討ちじゃないけれども。
 只そういう願行なら願行によって生まれてくる、霊験というのではなくてです。ところが金光様の場合は、それも頂けるけれども、そういうおかげなら決して金光様ことはいらんという事。信心を結い上げていく、しかも真の信心が身に付いてくるという事。髪を奇麗に結い上げさせて頂くという事。それにおかげというリボンなりかんざしなりが指される時にです。誰が見ても誰が聞いてもです。成程と合点するようになってくる。いよいよ、神様を顕す事になるのです。
 そういうおかげをもし頂けんとするなら、不思議な事ぞとその次に教えておられる訳です。信心してみかげのなき時はこれぞ不思議なる事ぞと。当然の事として頂けるのが金光様の御信心の、本当のおかげなんです。五と五を足せば十になると言う、当然の事なんだ。ところが五と五と足して七になったり、八になったりしかしないというならばです。愈々真の信心はこれはまぁだ、私の信心が足りんからだと、一心に真の信心を求めて進めていくところからきちっとした答が、当然出てくるのです。
 そういう信心を金光教では、身に付けて行かなければです。只参りゃ参る方あるけんといったようなおかげに始終しておったんでは、結局は信心の堂々巡りという事になりまして、本当の信心の成長にはならんのです。そこで神信心してみかげのあるをという事は、顕れるという事。これは神様が下さるといった様なものではなくてです、顕れてくるのです。そういう顕れてくる程しのおかげを頂かせて頂く為に、お互いが信心修行をさせて頂く訳であります。信心が分かりたい。
 真の信心が解りたいという修行なんです。金光様の御信心の修行というのは。おかげば頂かんならんけん。おかげを頂きたいから、修行すると言う様なものじゃないです。信心が分かりたいから修行すると言うのです。だからその辺も金光教の修行という見解が、それぞれにありましょうけれどもです。金光様の御信心はやはり信心が解りたいばっかりの一心が、私共も様々な修行もさせて頂いた。けれどもその様々な修行がです。もうしら真剣、生神金光大神様が、唱えさせて頂ける事が有難かったんです。
 それによって、どうでもおかげ頂かんならんというのじゃなかったです。どんなに寒中に水垢離を取らせて頂くでも、永い断食をさせて頂くでも、只一念は真の信心が分かりたい、又分かっていく楽しみ喜びなんです。ですからこちらが本気でそういう修行をさせて頂く時です。そげな修行はやめなさい、と言う様な事があった事がない。お道の信心は、表行より心行をせよと仰って、特に心の行というものを、重きを置いて信心しております。表行というのが。
 只おかげを御利益を頂く為に表行すると言った様な傾向になるから、表行よりはとおっしゃるのですけれども。愈々その心行を心行たらしめる為。愈々信心を分からせて頂く事の為に、表行でもさせて頂くと言うのならば、これは素晴らしい事なんです。二、三日前でしたが、末永先生がここへ出て来て、先生今日は上野先生と光昭が無期限の断食に入っておる。だから本当に修行した者でなからなければ分からない。
 又その修行がどうぞ成就致しますようにと、神様にお願いをさせて頂きよりましたら、親先生の硯箱の中に入っておる、黄色い鉛筆を頂いたと、御心眼に。そるけんあの人達は今何日目じゃろうかと言うたら、今日が先生まる五日でございますち言う。皆さんピンとこられるでしょう。愛子先生と光昭の断食修行、同じ日から始めている。その事をお願いさせて頂きよったら、黄色い鉛筆を頂いたと。黄色いという事は、今中という意味ですよね。黄色の色というのは、中心といつも御理解に頂きます様にね。
 中の色です。しかも鉛筆というのは、芯を削って出すという事。一生懸命のそのような信心をさせて頂いておるけれども。それは只とても普通では改まる事の出来ない、改まりでもさせて頂こうというのが、彼達の信心の目指しなんです。芯を削って出そうというのである。それこそ身を削り心を削りして、断食させて頂いておる。私はこの頃御用の時に、四日目位ですから、一番きつい時ですよね。けれどもあの大きな重たい石を、どんどん運んでから、元気ようやっているのを見てから。
 本当にこげな修行は若い時でなからにゃ出来んなぁと思いました。上野先生なんかは、段々、断食の稽古が出来とりますから、只頭が澄み切ってくるばかりで、心が落ち着いてくるばかり。例えば、断食の苦しさと言った様なものを二、三日経つと、感じなくなってくるんですね。それが又とても有難いのです。心が澄んでくるんですね。神様にずうっと、こう通うていく感じがする。それをお願いさせて頂きよったら、この黄色い親先生の硯箱の中に入っておる、この鉛筆を御心眼に頂いたと。
 ははぁそんなら今日が丸五日なら、まぁ五日間ばいのと私が申しました。と同時に神様は厳しいなぁっと思いました。本気で無期限の断食をさせて頂きたいと願うならです。大概、一週間位で五日位でと言う様な、甘い考えではなくてです。それは十日か十五日にならせて頂いてもです。やはり無期限ですから。けれども本気で本人達がしようというのであるから、丁度丸五日の時にそのお知らせを頂いたから、これはまぁ五日間あるなと。そんならあれ達は今度は十日間の修行ばいと言うて末永さん迄に話した事です。
 それから一日、二日遅れましてから、恵美子さんと直子が断食に入った。昨日が丁度丸五日になる。昨日恵美子さんがお届けを致しますのに、断食の修行が成就したという意味の事をお知らせ頂いておる。だから私が理解づけて、そういう風に二人の直子と恵美子さんの断食修行は今晩迄だと。今晩の御祈念が終わったら勝手に言うといて、御神飯を一つずつお粥さんにして頂くのですよね、断食を終わったら。一遍には頂きませんですから、内田の小母ちゃんに言うてから、御神飯を一つずつ炊いて貰っておけと。
 そして、九時に御祈念が終わってからいただく事にしょうと言うて、私は裏でその事をお礼申うさせて頂いておった。自分達の修行は終わったから、光昭リーダー達の修行も、どうぞ一日も早う成就しますようにと。いやあれ達はまだ、昨日一昨日だったか今中という話をして、今度は十日間らしいから、あんた達の場合はそうだけれども、光昭の場合はこれで終わりだからと言うておりましたけれども。恵美子さんの願いがです。どうぞ一日も早う成就になりますようにというお願いであった。
 ただお取次をさせて頂いて、それだけ言うておったところが、部屋から二人が出ていくと同時に、神様からお知らせを頂くのがですね。子供の時竹トンボというのを上げますね。こうやって回すとぱぁっと回る竹トンボ。あの竹トンボを頂くのです。あれはこうやって、上げんでん回しさえすりゃ、上さん自然に上がるごとなっとる。竹トンボはそうでしょうが。竹トンボのお知らせを頂いて、上野愛子大坪光昭の断食修行を終ると頂いたんです。私はそん時に思わせて頂いた事は、まあだ十日間のはずなのにです。
 願いというものが、そのようにして聞き届けられるという事ですね。二人の修行生の人達が、自分達だけは五日間で、早く終わったけれども。まぁだ先輩の修行生の方達がしとるから、それが一日も早う成就致しますようにと。何故かと言うと、親先生、実は、光昭リーダー達の伴走のつもりで、直子さんと二人で修行を始めましたと、こう言うのです。それが私は、昨日感じた事は。
 昨日の朝恵美子さんと直子と、ここへ出て参りましてから、断食修行の上に、今日からは、布団を着らんで、敷布団やら敷かんで、寝る修行をさせてもらいます。他にも色々こういう修行させてもらう、ああいう修行させてもらうと言った様な、修行のお届けをしておりました。だからこれはそんなに一遍に、あれもこれもじゃなくてから、断食修行が終わるのかもしれんなと思うておったら、恵美子さんがそのようなお知らせを頂いておるから、五日間で終わって。
 昨日お届けした人達の修行に、また他にも色々ありますけれども。その修行に今入っておる訳なんです。同時に恵美子さん達のお届けの、願いというものがです。聞き届けられるという事は、私は、竹トンボのお知らせから頂いたんです。願えば上がる訳です。という事は、例えば、十日間の修行として、神様が受けて下さるという事。自分達は薄々聞いているんですよね。五日の日が真中だと言うことを。だからこれは十日間ばいと、覚悟をしとった訳です。
 だから覚悟しておるという事も、十日間修行した事も同じ事でしょうけれども。それをまた後輩の人達が一日も早うと願う、その願いを神様は聞き届けておられるという事をです。だからお互いのいろんな願いというものは、神様は逐一聞き届けて下さるはずです。その聞き届けて下さるはずのおかげがです。いわゆる霊験が顕れないとするならば、ここに一つ本気で不思議と思わなければいけんという事です。
 しかも、その不思議という事がです。お道で言うところの神信心というのは、何処までも、拝むとか、参るとかという事ではなくて、自分の心の底から湧いてくる信心の歓喜、喜び。その喜びを頂かせて頂く事の為に、お話も頂く、お参りもさせてもらう。そして尚且つ、そうした表行でもさせてもらうという事なんだ。本当な信心が分かりたいから、断食もさせてもらう、お水もかぶらせて頂こうという事になるのです。そういう信心が成就する事の為に、表行をする事になる。
 それがお道の信心の表行でなからなければならないと、私は思う。神様が逐一聞き届けておって下さるのに、それがおかげとして現れていないならばです。心の上にも形の上にも現れていないならばです。これは不思議なる事ぞと思わせて貰うてです。愈々神様が願い求めてござるところの信心を、本気で身に付けていこうという事にならなければならんという事になります。お道で言う神信心とは、そういう事だと思うのです。
 ただ拝んだから、参ったから、奇跡的なおかげを頂いたと。言うならば決して金光様の御信心ではなくてもそこらにある、例えば石の祠を拝んでも、霊験奇跡というものは現れるという事。けれどもそれはです只かんざしの方を頂いただけであって、肝心要の髪を結い上げていないから、どうもほんなこう髪は乱れとるのに、かんざしのよかつばっかり指したっちゃ、返っておかしいでしょう。
 てんで髪はこう散り散りしてから、こうしとるとに、リボンばこうかけたっちゃ、返っておかしかでしょう。というくらいな信心しかならんのです。髪を結い上げるという事が、お道の信心なんです。信心を頂くという事が、お道で言う神信心なんです。それにおかげはかんざしなりリボンなりが、寄り添う時にです。成程素晴らしいなぁというおかげを顕していく事が出来る。本気で信心修行させて頂かなきゃ。
 家業の中に行を悟らして貰い、又は自分の心がその気になるならば、表行のひとつも思い立たしてもらう。そして愈々教祖が仰る神信心。髪を結い上げる事の信心にならせてもろうてそれに神様が、その髪の形にふさわしい、リボンなりかんざしなりを付けて下さった時にです。これは自分自身も愈々有難いなぁという事ですけれども。人が見てもいいなぁと立って眺めるようなおかげが現れて来ることになるのです。
 そういうおかげが頂けるのはです、これは理の当然である。当り前の事なのである。決して、それはただ不思議不思議と言うまじきものぞと、ここに仰っておられる様に、不思議じゃないのである。もしそれが頂けんならばです。それこそ不思議な事だと悟らせてもろうて、いよいよ真の信心に向かっての信心精進がなされなければならんという事になりますよね。
   どうぞ。